(2004年に妊娠中毒症から妊娠高血圧症候群に改称)
帝王切開の理由別体験談
お住まい | 広島県広島市 |
帝王切開の回数 | 2回 |
出産地 | 広島県広島市 |
出産年齢 | - |
子の生年月 | 2004.3・2007.2 |
産院(総合・個人) | 個人・総合 |
一人目の時から予定切開になりました。
それは、私が妊娠中毒になり、足が痛くてとても普通分娩は無理だろうと言う医師の判断からです。
手術2日前に入院して手術前の色んな検査を受けました。
手術室に入り、麻酔も効いて来たごろ隣の分娩で叫んでる声が微かに聴こえ、私より隣のお産の方が先でした。
手術も無事、終わり意識が朦朧とする中「おめでとうございます!女の子ですよ」と看護師に言われました。
術後も痛くて痛くて3日間はベットで唸ってました。
痛すぎて、「もういい!」とまで言った私です。
退院してからもしばらくは痛くて辛かったです。
今回二人目は、上の子もいる為実家がある呉市で産みました。
そこは、以前妹が勤めていたと言うこともあり、おまけに産科にいたので話はそれなりに聞いてました。
一回目が切開なんで自動的にまた切開でも出産にはなりましたが、入院は二週間でした。
午後3時に看護師が迎えにきて歩いて手術室がある2階へ行きました。
手術室に入り麻酔科の先生が来られるまで何分待ったのでしょうか?
「まな板の鯉」じゃありませんがそんな感じですよね。
個人病院では「まな板の鯉」状態じゃなかったので新鮮でもありびっくりしました。
手術は2時間ですが、やはり術後は痛かったですが精神的には楽でした。
点滴も背中にしている麻酔も、術後もしばらくはしたままでしたが、今は切開する人も多く精神面で助けられたと言った感じです。
主治医には、まだまだ出産可能ですよと言われましたが、2人もできたので良いですと言えるぐらいまでになったみたいです。
傷後も前回とは違いホッチキスじゃなかったのにもびっくりしました。
お住まい | 千葉県 |
帝王切開の回数 | 1回 |
出産地 | 千葉県 |
出産年齢 | 20代 |
子の生年月 | 2007.3 |
産院(総合・個人) | 個人→総合病院 |
私の場合、妊娠中毒症の要素はすでにあったようです。
家系の高血圧、私の肥満。
出産後に聞いた話だと親戚に妊娠中毒症を患った事のある人もいました。
妊娠してから家の近所の個人産院にかかっていました。
妊娠5ヶ月目から始まる検診での血圧測定。
すでに140/82ありました。いきなり赤丸チェックです。
その時は経過観察、という感じでしたが検診で計る度に血圧は上がっていきました。
尿タンパクは8ヶ月入ってから出始め、むくみに関しても8ヶ月頃から症状がありました。
いよいよ明日から産休、という日。
最後の出勤ということもあって少し無理をしました。
翌日、9ヶ月検診に行きました。
血圧が180/115ありました。
血圧は高かったのですが、頭痛、目がチカチカするなどの自覚症状は相変わらずありませんでした。
尿タンパクは3+。今日か明日にでも入院してください、と主治医には言われました。
その時私はまだ入院の準備も、赤ちゃんの準備もしていなかったのでとりあえず翌日にしてもらい翌日朝一で入院しました。
入院中は毎日血液検査の為の採血、1日5回の血圧測定、NST。
血圧を下げるためにテレビもダメ。読書もダメ。
部屋を暗くしてひたすら寝ているという私にとっては拷問のような毎日でした。
5日経っても血圧は下がらず降圧剤を飲み始めました。
1週間経ってエコー検診を受けた所、赤ちゃんが小さいとの診断。
地域の周産期医療センター的役割を担っている総合病院への転院を提案されました。
その時はまだ家に帰りたい一心でした。
出産の事より自分の病気のことで頭がいっぱいでした。
転院前に総合病院に出向いて術前の検査を受けました。
その時に帝王切開になる可能性が高いことを知りました。
手術になること、普通分娩で産めないことは前々から考えていたので、さほどショックでは有りませんでした。
ベッドに空きがない、とのことで個人産院に戻り相変わらずの管理入院。
この時妊娠35週。入院中にこのサイトで帝王切開に関しての知識を集めてました。
院長先生の回診時に「産むとしたら37週入ってからが良いのですが総合病院はまってくれますか?」と質問してみた所
「手術するために転院するようなものだから待ってくれないと思うよ」とのお答え。ショックでしたが腹をくくりました。
1週間たって総合病院へ転院。すぐに診察、初めての内診(かなり痛かった!)を受けました。
診察が終わって先生からの説明によると
「赤ちゃんの発育が良くないです。母胎の血圧も高いし、尿タンパクも3+でていて血液中にタンパクがほとんど残ってません。
このままだと赤ちゃんも苦しいので出しちゃいましょう。胎盤に問題ないようなので陣痛促進剤を使ってダメなら帝王切開でいかがでしょう。」
先生の手元には陣痛促進剤と帝王切開の2枚の同意書が用意されていました。
私は帝王切開になるとばかり思っていたので普通分娩に関する知識はありませんでした。
ましてや陣痛促進剤。
不安になったので「分娩中に頭の血管が切れてもイヤなので帝王切開にしてください」とお願いしました。(珍しいのかな?)
手術日は2日後に決まり、夕方には旦那と2人で手術の内容とリスク、術後の予定についての説明があり同意書にサインしました。
家族には「なるようにしかならないし、早く産んで早く帰ろう」と言ってましたが内心、不安でいっぱいでした。
なんせ健康体で育ってきた私は今回入院も始めて。
手術どころか点滴すら打ったことが無かったんです。
翌日、術前の準備が始まりました。
シャワーを浴び剃毛。
このときに看護師さんから帝王切開は浣腸をしなくていいと聞いてラッキーと思いました。
そのあとも手術服の準備やら血栓予防の為の靴下のサイズ測定、麻酔の説明、薬と点滴の説明など入れ替わり立ち替わり看護師さんが来ていて不安に思っている暇がありませんでした。
いよいよ手術日。
10時開始予定だったので起きてから準備がすぐに始まりました。
手術服に着替えて靴下を履き点滴。
ストレッチャーに乗せられて筋肉注射を打たれました。
これがすごく痛かった・・・。あっという間に手術室に運ばれました。
手術室に入ると服を脱ぎ手術台に。
導尿管を入れられ腰椎麻酔。
「丸くなって」と言われましたが大きなお腹を抱えてうまく丸まれるはずもなく。
何度か針を刺される感覚がありました。
この時手術室にいたのは主治医で執刀医の先生と執刀助手の先生、麻酔科の先生、新生児科の先生と数人の看護師さん。
執刀助手の先生以外はみんな女性でした。
麻酔の効きは思ったより良かったです。
「恥骨のあたりに何か器具が挟まれているな~」とか考えていたら産声が聞こえました。
「意外と大きいな~。足長いし。」と言う主治医の先生の声で私はほっとしました。
赤ちゃんは私の元に連れて来てもらってから新生児科へ。
予想より大きく2437グラムあったので その後は普通の赤ちゃんと同じく新生児室に入れていただきました。
赤ちゃんが出てから私はなんだか息苦しく何度か先生に訴えた所、麻酔を追加していただきました。
朦朧としている間に血圧が上がっていたようで何度も「深呼吸して!」と言われていました。
お腹を縫合している間、先生方は休みの日の過ごし方や旅行の話をしてましたね。
縫合が終わると移動式のレントゲンで腹部を撮影して手術室を出ました。
部屋に戻ると今度は吐き気におそわれました。
前日の夜から絶飲食でしたから当然吐けるわけもなくゲーゲー言ってる間に私は眠ってしまいました。
その時私の体には頭から酸素チューブ、30分に1回測定できる血圧計、心拍計、点滴、足にはエアマッサージャー、導尿管がついていました。
目が覚めたのは夜中でした。
後陣痛なのか傷口の痛みなのかわかりませんでしたがお腹が痛かったです。
看護師さんに痛み止め打つか聞かれましたが筋肉注射、とのことだったので我慢することに。
しかし痛みで血圧が200まで上昇したので1回打たれました。
その後は看護師さんにわがままを言って、注射ではなく粉薬の痛み止めをもらいましたが(私は喘息だったことが有るので座薬はもらえませんでした。)それも1度しか飲みませんでした。
翌日には機械達もはずされて2日後には導尿管もはずれて歩き始めました。
手術から10日で退院。
中毒症の後遺症でまだ通院していますが母子共に元気です。
私も旦那をはじめとする家族達にも帝王切開に対する偏見はなかったので「出産方法の1つ」ととらえることが出来たと思います。
ただ、お見舞いに来てくれた友人が「帝王切開なら麻酔してくれるから、私も産むなら帝王切開がいいな」と言ったときには「変わらないのにな~痛いのは」と思いましたけどね。
恐らく友人は出産が自分の身にまだ迫ってないこと、帝王切開の知識が浅いことから深い意味も無くそういう発言がでたのでしょうね。
友人が妊娠した際にはじっくり教育してあげようと思っています(笑)
お住まい | 福島県 |
帝王切開の回数 | 2回 |
出産地 | 福島県 |
出産年齢 | 30代 |
子の生年月 | 2002.9・2006.6 |
産院(総合・個人) | 個人 |
~1人目~「ちさとが生まれた日」
2002年9月4日(予定日の1ヶ月前)
朝方からお腹が張りっぱなしで辛かったので、2階の自室で安静にしていたけれど治まるどころか、
だんだん呼吸が出来なくなりそうにさえなって来たので、旦那に話し、産院に電話を入れるととりあえず入院準備をして来てみて下さいと言われたので、姑は留守だったが、庭にいた舅に訳を話し、旦那の車で産院へ向かった。
産院に着き、先生の診察を受けると即入院となった。
この時かなり妊娠中毒症の症状が進んでいたらしい。
貧血も強く出ていたので、飲み薬と注射、点滴や食事による治療がその日から始まった。
2002年9月19日(出産当日)
入院以来、ずっと飲み薬や注射、点滴、食事による治療を受けて来たものの、あまり症状が改善しなかったので、予定日よりちょうど2週間前のこの日、帝王切開での出産になった。
その1週間前ぐらいにこの日の出産という事は決まっていたのだけれど、手術の時間帯が決まったのは前日だった(^^;
前日、よく眠れるようにと看護師さんが睡眠薬と精神安定剤を持って来てくれたので飲んでみたけれど、結局緊張の為かあまり眠れぬまま当日の朝を迎えてしまった。
早朝から手術の為の準備が始まる。
大の苦手な剃毛は前日の夕方に済んでいたけれど、もっと苦手なものが。
それは「浣腸」である。
何せ3人部屋に入院していたので、当然トイレは付いてない。
トイレからはそう遠くない部屋だったんだけど・・・でも、やっぱりちょっぴり間に合わなかったようで、トイレの入り口でエライこっちゃな事にil||li _| ̄|● il||li
浣腸の後、点滴をしながらお腹の張り具合を調べる装置(NST)でチェックしたり、血圧を測ってもらったりしながら手術室へ入る時間を待っていた。
前夜の9時以降は水一滴口にしていないので、喉は渇いてくるし、食べられないとなると同室の人に運ばれて来る食事の美味しそうな匂いどころか、テレビの料理番組さえも恨めしかった。
テレビを見たり、おしゃべりをしたりしながら気を紛らわせているうちに看護師さんが呼びに来た。
いよいよ手術室へ入るのだ。
看護師さんの介助を受け、点滴台を押しながら「それじゃ、いってきます」と病室に居た旦那や両親、姉に挨拶して手術室へ向かった。
ここまでくればもう文字通り「まな板に乗った鯉」だ。
先生を信じて身を委ねるより他にない。
手術室へ入り、パジャマを脱ぎ、全裸の状態で手術台へ乗る。
この瞬間が何となくイヤ。
開腹手術は中2の時の「虫垂炎」でも経験済みだったけれど、全裸でよっこらしょと台に乗るというのが何となく気恥ずかしいのよね。
そんな贅沢は言ってられないんだけど。
手術台に横たわり、先生が来るのを待つ。
室内には先生の選んだらしいBGMが流れていた。
やがて術着を身にまとった先生が来て、いよいよ手術開始。
が、麻酔の時に問題発生。
冷静な先生が焦って叫んだ。
「ダメだ!背中まで浮腫みが来ててこの針では刺さらない。もう一回り上のを持って来て!!!」
(えっ!?背中までむくんでるって・・・そうなの?)
すったもんだの末に何とか麻酔を打ってもらい、助手の先生も来た。
「縦ですか?横ですか?」「縦に切っといて」(えっ!?縦切開なの?確か、この産院では横切開するって聞いてたんだけど・・・しかも院長先生じゃなくて助手の先生が切るの???)
麻酔の効きが良くない体質なので、効いてるのかいないのかよく解らない微妙な状態でメスが入る。
い、痛い。
切開しながらの先生同士の会話。
「この虫垂炎の傷、かなり大きいですね。これじゃ横に切るのは難しいですよね」
「そうなんだよなあ」
なるほど、そういう事でしたか。確かに私の虫垂炎の傷跡は手遅れの一歩手前での手術だったので、普通の人より大きい。
その上、傷痕が残りやすい体質なのでケロイド状になり、浸出液を体外へ排出する為に真ん中に短い管を立ててあったので、その部分が陥没しているのだ。
どうやら先生同士の話から推察するに、その傷が邪魔をして横には切れなかったらしい。
しょうがないか。とにかく無事に生まれてくれさえすれば傷なんてどうでもいい。
でも、麻酔の効き目の悪さには泣かされた。
痺れてる感じはあるのにとにかく痛い。
それでも痛いまま手術は進んでいく。
「もうすぐ赤ちゃん出るよ。赤ちゃん受け取る人は誰だ?」と先生が聞くと、助産師さん(先生の奥様)が「はい、私です!」
そんな会話があって間もなく、一瞬ふっと身体が軽くなる感覚が。と同時に元気な産声が
聞こえて来た。
「オギャー!オギャー!」
「おぉっ元気だ、元気だ。良かったね」
「おめでとう。元気な女の子ですよ」
帝王切開なので産声が聞けないのかと思っていたら、お腹から出された次の瞬間にはもう元気に泣いてくれたのでほっとした。良かった、元気なんだね。
こうして私も母になった。我が家に新しい家族が増えた瞬間である。
生まれて来てくれてホントにありがとう。
~2人目~「ちなつの生まれた日」
2006年6月25日(出産前日)
ちさととふたりで実家にお泊まり。
ちさと、夜中に寝呆けて泣く。
その泣き方が凄まじかったので、出産入院中ひとりで実家にお泊まりできるのかどうか一抹の不安を感じたが、家に置いて来れない以上、ちさとにも頑張ってもらうしかない。
2006年6月26日(出産当日)
ちさとの寝起きの機嫌はイマイチだったが、 朝からじいちゃん(私の父)やおばちゃん(私の姉)と少し遊んだら機嫌が直ったようだ。
朝食を済ませ、入院の為に必要なものも車に積んで、 今日は実家から保育園へ登園。荷物がたくさんあるのでじいちゃんも一緒に行く。
ちさと、じいちゃんも一緒で嬉しそうなんだけど不思議そう。
保育園へ着き、教室まで送って行くと担任の先生がとても驚いた顔をしていた。
そりゃそうだ。今日入院して出産するというのに普通に運転して娘を送って行ったんだから(^^;
「あらっ!?お母さん、今日入院じゃ・・・」「はい。これから入院してお産です」
「だ、大丈夫なんですか?」「たぶん。で、これからしばらくの間は私の実家から主人の送り迎えでの登園になりますので、よろしくお願いします」
「はい。解りました。お気をつけて・・・」
先生とそんな会話をのん気に交わした後、保育園からほど近い場所にある産院へ。
入院は午前9時。着いたのは8時45分頃(だったと思う)なので、少し早めに着いた。
着いたら一度受付に声を掛けて下さいとの事だったので声を掛ける。
しばらくして病棟担当の看護師さんが迎えに来てくれて、とりあえず手術前の準備をするという事で出産後一夜を過ごす事になる回復室に向かった。
父が荷物を持って手伝ってくれ、一緒に回復室へ。
とりあえず着替えてて下さいと言われ、持参したパジャマに着替える。いよいよだわ。
今日からの治療計画書(治療方針や入院期間の予定、担当の医師や助産師の名前などが書かれている)などを渡され、熱と血圧を測った後、点滴をしながらお腹の張り具合をチェックする機械(NST=ノンストレステスト)をつけてもらってチェック。
そう言えば今日はいつもよりお腹が張った感じがするなあ・・・。と思っていたら、グラフをチェックしに来た看護師さんに
「グラフを見るとお腹が張りっぱなしみたいなんですけど、痛かったりとかしてませんか?」
「そういえば今日はいつもよりちょっと張ってるかなあっては思ってましたけど・・・」
「そうですよね?でも、痛くないですか?」
「いや。痛いとかはあんまりないです」
「そうですか・・・。ちょっと待ってて下さいね」
そう言って看護師さんが回復室から出て行った。
しばらくしてから、紙パックのお茶と錠剤を手にして戻って来た看護師さん。
「かなりお腹が張ってるみたいなので、とりあえず張り止め飲んでてもらっていいですか?これで少し様子をみましょうか」「はい・・・」
手渡された張り止めの薬を少量のお茶で飲む。(あれっ?今日は確か水の一滴も口にしちゃいけないハズじゃなかったっけ?)
出産後に看護師さんから教えられたのだけれど、実はこの時「陣痛」が来ていたのだ。
でも、当の本人はのん気なもので張り止めを飲んでもやっぱりお腹の張る感じは治まらなかったけど、別に痛くはなかったので、まさかそれが「陣痛」だとは思いもせず、ただただな~んかお腹が張るなあ。これってちょうどオナラが出そうで出ない時に似てるかも・・・などと考えていたのだった。
今考えればのん気にも程があるよね(^^;
私がそんなのん気な事を考えている間もNSTのグラフは陣痛が来ている事を示す波形を確実に描いていた。
時折様子を見に来てくれる看護師さんに何度も
「ホントにお腹痛くないですか?」と聞かれたが、張ってる感じはしても痛くなかったのよね。
しばらく待ってもお腹の張りは治まらなかったので、看護師さんが先生を呼びに行った。
看護師さんと一緒に先生が来て、NSTのグラフをチェックしながら、だんだん難しい顔になっていったのでさすがの私も(な、なに?なにかしたの?)と少し不安になって来た。
グラフから目を離した先生が
「これだけお腹が張ってる状態では夕方まではもたない。助手の先生が来るのを待っていたんでは間に合わないから、オレがひとりで切るから。すぐにセットアップして!」と看護師さんに指示を飛ばす。
「今から切って赤ちゃんを出しちゃうからね。旦那さんは一緒じゃなかったの?」
「夜勤明けで一睡もしないで来ちゃったんで、夕方からだから一度自宅に戻って少し休んで来るって言って戻りました」
それを聞いた先生は再び看護師さんに指示を飛ばす。
「旦那さんに連絡してすぐ来てもらって!」「はい。解りました」
回復室でそんな会話があってそう経たない時間に旦那が来たので
「なんか、今から切っちゃうんだって。ちさとのお迎えどうしようね」
「そうだなあ・・・。時間見てオレが行って連れて来るか、でなきゃお姉さんのどっちかに頼んで連れて来てもらうか・・・」
そんなこんなでバタバタと手術の準備が進められていく。
私の大の苦手な浣腸とか、ちょっと恥ずかしいお下の毛の処理とか。
そして12時ちょっと過ぎには手術室へ入った。
身包みはがれ、全裸の状態で手術台に乗ると、これまた私の大の苦手な導尿用の管を入れてもらう作業が待っていた。
あれって結構痛いし、違和感あるんだよねぇ(^^;
でも、今回はかなり慣れた手つきの看護師さんがやってくれたのでさほど痛いという感じもなくすんなりと入った。
やっぱりちょっと違和感はあるけど、仕方がない。
やがて術着に着替えた先生登場。結構厳しい事で評判の先生なので手術室内に張り詰めた空気が漂う中、麻酔。
これがまた苦手なのよね。
いや、なにって。体が硬いものでね、背骨が出るように体をギュイーッて丸めるのがうまく出来なくて・・・結局先生に何度も注意されちゃったわ(^^; はい、ごめんなさい。
今回は「無痛分娩」の人と同じ「硬膜外麻酔」での手術だったので、麻酔を打つ場所もデリケート。
きちんと狙いを定めて打たないと失敗しちゃうから、ホントに先生も大変だったのよね。
ご迷惑をおかけしました。
やっとの事で麻酔を打ってもらい、効き目が現れたかどうか確認しながら、背中にもチューブを入れてもらった。
少しずつ少しずつ痛み止めやなんかを流すんだとかで、なんか注射器のデッカイのみたいのがぶら下げられる。
その間もずっと点滴。
麻酔の効きが悪い体質の私なので、今回も効いているのかいないのかよく解らない状態のまま手術が始まった。
ふと上を見ると先生が切っている様子がライトの金属部分に映っていた。
血が苦手なのであんまり見ちゃうと気分が悪くなってくるから、なるべく見ない振り見ない振りでやり過ごす。
背は小柄なのに肥満体の私の体には脂肪がたくさん付いているので、先生も切るのにかなり力が要ったようで、それが私の体にも振動として伝わって来た。
それでも何とか切り終え、「もうすぐ赤ちゃんが出て来るからね」と言う先生の声が聞こえて間もなく「オギャー!オギャー!」と元気な産声が聞こえた。
産まれたんだ。
「おめでとう!無事生まれたよ」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
先生や看護師さん達からの祝福の声、そして元気な産声にあふれ出る涙を抑える事が出来ず、ただただ涙・涙。
午後0時50分、ちなつ誕生。
身長48.0cm、体重2,810gのとても元気な女の子。
「赤ちゃん、元気だからね。さあお母さんはもうひと頑張りだ」 「はい・・・」
私は酸素マスクをつけてもらい、眠りに落ちていく。
それでもやっぱり何だか痛いまま傷口を縫合してもらい、無事手術終了。
手術台からベッドに移され、旦那と父の待つ回復室に戻る。
「ご苦労さんだったな」
「ねぇ、ここから産声聞こえた?」
「聞こえた、聞こえた。かなり元気に泣いてたなあ」
夕方、旦那がちさとを保育園から連れて来てくれて姉妹が初対面。
お姉ちゃんになったちさとは、生まれたての妹をガラス越しに見て不思議そうな顔をしていたそうな。
回復室で休んでいた私のところへ来た時は、いつもとは違う私の姿に驚いた様子で何だか泣きそうな顔をしてたっけ。
こうして我が家に新しい家族がひとり増えたのだった。
お住まい | 鹿児島県鹿児島市 |
帝王切開の回数 | 1回 2人目はVBAC |
出産地 | 鹿児島県鹿児島市 |
出産年齢 | 20代 |
子の生年月 |
2002.11 2005.11 |
産院(総合・個人) | 帝切→総合 VBAC→個人 |
2002年11月に第1子となる娘を総合病院で出産しました。
娘は妊娠6カ月の頃から逆子と言われ出産時まで結局一度も逆子がなおることはありませんでした。
私が通院していた病院は総合病院で逆子の場合は帝王切開ということが決まっていました。
娘が誕生した日。
その日は定期妊婦健診にでかけた時でした。
37週2日を迎えたときです。
自分で車を運転していつもとかわらなく病院にでかけました。
助産師さんにいつもどおり計測をしていただいてたのですが、その時血圧が180/120あることがわかり、そこから慌てて緊急入院することになりました。
今思うとすごくむくみもあったように思いますが自分ではあまりよくわからなかったです。
血圧がそこまであがっていても気分も悪くないし頭痛もないし・・
そのことに先生や助産師さんに驚かれてしまいました。
先生に診察していただいたら重度の妊娠中毒症と言われ、いっこくも早く赤ちゃんを外にだしてあげたほうがいいと言われ、逆子もなおっていなかったしその日の午後緊急手術となり娘を出産しました。
主人が仕事にでかけていたので急いで入院グッズを持って病院にきてもらい、主人が先生から説明を受け承諾のサインをし手術が行われました。
私はあまりの急展開に冷静になろうと思うのですが、少し興奮していたし手術時間が近くなると不安でふるえがとまらなくなり手術室に入る前には涙がでてきました。
震える私をやさしく助産師さんが話しかけてくださったりもうすぐ赤ちゃんに会えるからねと励ましてくれたり・・ずっと私のとなりにいてくれたことが本当に心強かったです。
麻酔は部分麻酔で背中に注射されましたがとっても痛かったです。
娘は20分たたないくらいで元気な産声をあげ誕生しました。
すぐに抱くことはできませんでしたがとなりにつれてきてもらい娘と初対面しました。
2480グラムと少し小さめではありましたが、1日だけ保育器にお世話になるだけで、少し黄疸もでましたが治療するまではなく元気に泣き、そしてたくさんミルクをほしがる娘でした。
術後の私の経過は本当に悪くてなかなか血圧が下がらず、薬を飲むことになり母乳があげられずそのことが本当に悲しかったです。
初乳はあげることができたのですが、おっぱいをあげることができたのは産後1週間だけで、その後は薬が赤ちゃんに影響があるとのことで母乳は搾乳しては捨てなくてはならず辛かったです。
おっぱいもものすごく張って、助産師さんにマッサージしてもらってたのですが、結構出もよかったみたいでたくさんの母乳が出てたようです。
助産師さんに『○○さんの涙のようだね。。辛いけどまずは体治そうね』と言われ涙がとまりませんでした。
結局薬は産後1カ月くらい飲むことになり、薬を飲まなくてよくなったときにはおっぱいもまったく張らず、全然母乳がでなくなってしまい、娘が3カ月になるくらいまではおっぱいを吸わせてはいましたが、毎回でないので娘も怒って泣き完全ミルクで育てることになりました。
産後のもどりはあまりよくなくて、血圧がなかなか下がらないので母子同室にはならないし本当に辛かったです。
まわりのおかあさんは元気に動いて赤ちゃんのお世話をしているのに、傷痕は痛いしどうして私は思うように動けないの?娘と同じ部屋にいたい・・と泣いてばかりいたように思います。
そんな私の話を主人は入院中欠かすことなく病院にかけつけてくれて聞いてくれていたことが私の心の支えでしたし、娘のことを愛しそうに抱く主人を見るのがうれしかったです。
2週間で退院し喜んでいたのも束の間。。
退院した翌日から下腹部が痛みだし高熱がでるので受診しました。
診察結果、私は双角子宮で妊娠してなかったほうの子宮からも悪露が出なくてはいけなかったのにうまく出てなかったようで、子宮に悪露がたまり腫れて熱がでてるとのことでした。
子宮からかき出してもらい一旦は家に帰ったのですが、それでも熱は下がらず痛みもあったので、また病院にいくと入院するように言われ また病院にもどることになりました。
その間娘は実家で私の母と姉がみてくれていました。
入院は4日ほどですみましたが、子宮から悪露をかき出す処置は麻酔もなかったので痛くてたまりませんでした。
産後の体はゆっくりゆっくり確実に回復していったのですが、時間がたつたびにどうして普通分娩ができなかったのかな・・どうして母乳で育てられないのかと、なかなか気持ちの切り替えができず苦しかったです。
1番辛かったのは『手術でらくだったからいいじゃない』この言葉でした。
そして見ず知らずの方になんで母乳なの?ミルクなの?って聞かれることが本当に嫌で一時期外出するのさえ嫌になってしまいました。
私は昨年、第2子をVBACで出産したのですが、どちらも経験して言えること。。。それはお産は帝王切開だから・・普通分娩だから・・と比べるものでは決してないものだということ。
どちらの方法であっても母子共に元気で生きていられることがこのうえない幸せであるということです。
どちらのお産も本当に大変です。お母さんたちは必死なんです。
むしろ手術のほうが術後の苦しみは本当に大変です。。
私は最近ようやく胸をはって帝王切開で出産したことが話せるようになったと思います。
娘が大きくなっても胸をはって出産した時のことを話そうと思っています。
お住まい | 青森県 |
帝王切開の回数 | 1回 |
出産地 | 青森県 |
出産年齢 | 30代 |
子の生年月 | 2003.5 |
産院(総合・個人) | 総合 |
それまで順調に来ていた妊娠生活が、妊娠34週ごろから徐々に崩れ始めてきました。
まず、尿淡白・むくみが現れ始めてきました。
妊娠35週の終わりになると低血圧の私が驚くほど高血圧になっていました。
さすがに「ヤバい」と感じた私は、初期から通っていた個人産院に管理入院させてもらうことになりました。
個人産院ではまず、「塩分制限食」「1600kCal.制限食」「絶対安静」で10日間入院生活を送りました。
入院生活約7日ぐらいの夜、突然胃に激痛が走りました。
この時私は勝手に「お腹が大きくなって胃が圧迫された痛みだろう」と解釈していました。
この痛みは昼になると治まったので、先生に言うこともなくほっといていました。
そして10日目一時退院をしました。
そして、37週6日見ていたネットで「HELLP症候群…症状として消化器の痛みが現れたら本症を疑う」とありました。サ~ッと背筋が寒くなりました。
とにかく早く病院へと慌てているとことへ、ちょうど主人が帰宅して時間外でしたが個人産院へ急ぎました。
個人産院へ着くと、すぐに血液検査とNSTをしました。
血液検査の結果が出ると、先生が慌てた様子で「大変です。これはHELLP症候群が疑われます。すぐに総合病院へ救急車で行きましょう!」と言われ、一瞬何がなんだか分からなくなりました。
救急車で10分ほどの総合病院へ着くと、産科の看護師さんが待っていてくださいました。
「こちらで引き受けますので、大丈夫ですよ」と励ましてくださいました。
すぐ分娩室に運ばれ、内診…結果は「子宮口は柔らかくなってはいるけど、0センチ」と。
再度、超音波・NSTを撮りました。「胎児は2500グラム前後。NSTの結果あまり赤ちゃんが元気じゃない」血液検査の結果「やはり、HELLP症候群の疑いが強いです。対処法は妊娠の中断です。つまりこのまま帝王切開をして赤ちゃんを取り出すことです」と言われました。
私はもうこうなったら「赤ちゃんが無事生まれてくれるんだったら、なんだっていい!」と思い、帝王切開をお願いしました。
剃毛・導尿・アレルギー検査・心電図etcとても早く手術の準備が整っていきました。
大きなお腹なので、腰椎麻酔をするとき腰を曲げれなくて痛くて辛かったです。
麻酔が効き始め、下半身に全く感覚がなくなったと同時に手術が始まり約5分後2245gの女の子を出産しました。
しっかり産声を聞けたので、ほっと一安心でした。
やはり小さいのでNICUの保育器に入りました。赤ちゃんに会えたのは出産後2日目で車椅子に乗って面会に行きました。
術後、3日は辛かったです。
後陣痛に傷の痛み、そして麻酔の後遺症の頭痛がひどかったです。
他の帝王切開の産婦さんとは違い、肝機能が著しく低下していたため、点滴の他に血管注射をしました。
母乳の出は先生も驚くほど良く、毎日搾乳してNICUに届ける毎日が続きました。
抜糸が済んだら、退院指導・家族計画(2人目は3年空ける様に)・沐浴指導と慌しく行い、通常の帝王切開の入院8日より2日長い10日で退院し、赤ちゃんはそのままNICUに入院し21日目退院できました。
すごく慌しいお産だったけど、自分にとってすごくいいお産だったと断言できます。
お住まい | 埼玉県 |
帝王切開の回数 | 1回 |
出産地 | 埼玉県 |
出産年齢 | 20代 |
子の生年月 | 2004.3 |
産院(総合・個人) | 産科専門病院 |
もともと体重が多めで、妊娠中毒症には人一倍気をつけていました。
仕事をしていて動いていたからか、9ヶ月に入る頃までの体重増加は2.5kg。
しかし、産休に入った直後の検診で、血圧上昇と浮腫+。
その後は4日に1回の検診となり、NSTを毎回取られました。
そして37週6日の検診で、尿タンパク++となり、入院が決定しました。
幸い、中毒症の症状は軽症で、症状が落ち着き次第、誘発してお産にしましょうという方針で管理入院ということになりました。
それと同時に、週数の割には胎児が降りていないと指摘され、レントゲン検査を行うことに。
結果はかなり悪く、骨盤が狭すぎて頭が入らないかもと言われてしまいました。
実際にお産になったときにどれくらい骨盤が開くか分からないので、その可能性にかけて、ダブルセットでお産にしましょうと、38週6日に、誘発を開始することになりました。
○誘発1日目
朝食後、浣腸、剃毛などの処置をして、バルーンを入れられ、熟化剤の点滴を打ち、お産の準備に入りました。
ですがその後、陣痛もかなりついてきたにもかかわらず、子供は全く降りてきてくれませんでした。
○誘発2日目=手術当日
朝食を摂った後に診察。
「頭が全く降りてこないねー。これは帝王切開になる確率、90%だね。朝ごはん食べちゃった?じゃあこれから絶食ね」と、心電図やアレルギー検査等を行い、ブドウ糖の点滴が開始されました。
午後、別の医師の診察があり「入院してから±で落ち着いていたタンパクが、今朝の採尿で++になってしまった。
血圧もまだまだ高いから心配。
赤ちゃんの頭も全く降りてきていないし、このままだと母体に負担がさらにかかって母子ともに危なくなる可能性もあるから、帝王切開にしたほうが良いね」と言われました。
入院した時から覚悟は出来ていたし、無事に産まれればどんな方法でもいいと思っていましたので、帝王切開に同意しました。
それから1時間後、娘は産まれました。
腰椎麻酔でしたが全く痛みもなく、あっという間の出産でした。
夫も立会いの手術で、おなかから引き出され、産声を上げる瞬間を目隠しをされている私の代わりに見てくれました。
術後は傷と子宮収縮の痛みとで、うとうとしては痛みでうなる自分の声で起きる、を繰り返しました。
○術後1日~7日
午前中に歩行開始。
お腹の痛みのためとてもつらく、さらに、ベッドから降りようとしたとき、足の動かし方を一瞬忘れ、非常にあせりました。
そして、娘がいる新生児室までのたった10mの距離がとても遠く感じました。
傷の痛みは、妊娠中に使っていた、腹巻タイプの腹帯を履くと、あまりきつくなく、ちょうどよい感じに傷が固定されて軽減しました(入院生活最後のほうになるとゆるくて使い物になりませんでしたが)。
食事は、術後2日目から。最初はお茶1杯からでした。
その後、2食ずつ流動食→3分がゆ→5分粥→7分粥→全粥→常食と、術後6日目まで徐々に普通の食事に戻していきました。
その他の術後の処置は、歩行開始まで血栓予防のストッキングを履き、さらにエアーマッサージ。術後4日目まで朝夕、血栓予防の注射。
点滴は術後5日目まで子宮収縮剤、6日目まで抗生剤、水分補給できるまで生理食塩水。
全粥食になるまでブドウ糖液がありました。
私は血管が細く、留置針に耐えられなかったため、術後2日目から針を毎日差し替えていました。
それでも液漏れを起こし、手の甲に刺された時には、鎮痛剤で眠っていたために液漏れに気づかず手全体がパンパンに腫れてしまいました。
最後には腕はアザだらけで点滴を刺すところを探すのに看護師さんが苦労していました。
さらに飲み薬でも子宮収縮剤、整腸剤、抗生剤が処方されました。
傷を止めているホチキスの針は、6日目に1つおきに半分、7日目にさらに半分を抜きました。
針を抜くと痛みはかなり軽減しました。
母子別室のため、授乳開始の5日目までは子供を抱いたのは歩行開始時の1回のみ。
あとは新生児室の外から子供を眺めるだけでした。
出産翌日から授乳が始まる普通分娩のお母さんがうらやましくて、毎日泣いていました。
○術後8~9日目
痛みもほとんど無く、沐浴指導などをあわただしく受けました。
この頃になると、尿タンパクや血圧も正常に戻っていました。
そして、退院診察も順調に済み、無事退院することが出来ました。
○その他
私は入院したから可能だったのかもしれませんが、自分の体の状態や、普通分娩のリスク、本当に帝王切開にしなければダメなのかなど、夫も交えて医師とじっくり話ができました。
そのときも、自分が疑問に思っていることを質問し、医師が持っている情報を可能な限り聞くことができたと思います。
ちなみに傷跡は立派なケロイドになっています(笑)
昔、怪我をして、手術をしたところもケロイドになっているので、体質なんだと思います。
天気が悪い日は、少し痛みます。