帝王切開の理由別体験談
お住まい | 愛知県 |
帝王切開の回数 | 2回 |
出産地 | 愛知県 |
出産年齢 | 30代 |
子の生年月 |
2000.4 2002.5 |
産院(総合・個人) | 個人 |
=長女の出産=
予定日は3月22日でした。
年度末の生まれなんて、一年遅れる感じだな~。と思っていました。
陣痛の気配もなく 31日、なんだかシクシク痛いので病院に電話。
すぐおいで、といわれて夜中に行くも明日まで様子見てヨシ。と返される。
そのかわり、入院セット持って来てね。と言われた。
翌4月1日。エイプリルフール。入院です。
今日産まれなかったら 学年が変わるんだ・・・。と、考えてたし 旦那とも話してました。
予定日より10日遅れていることも気になり緊張していたのかな、と今は思います。
朝から病院に行き、階段を一日中昇り降り。変化なし!
2日。
学年変わった・・・。
義姉お見舞いに来るが、旅館の1室のよう。賑やかに談笑。
顔だけ出せる、座浴温泉のようなもので体を暖める。座って、ファスナーじりじり・・・。
看護婦さんが「お風呂入ってリラックスしてみる?」と 勧めてくれた。
が、浴室が予約で埋まってて宿直の看護婦が使うような、裏手のユニットバスに案内された。
誰か来そうでドキドキして リラックスにならなかった・・・。
そんな一日が 普通に過ぎていった。
3日。
いよいよ促進剤を使うことになった。羊水も少なくなっているみたい。
朝から投与して、痛みが付いてきたがまだガマン出来る。
夕方、5分間隔から進まないが 痛みは強くなってきた。旦那に腰をさすってもらう。
「きたきたきた・・・・・・」と思ったら だば~~~~~~~~っと 破水した。
ナースコールを押しながら「はすいしたーーーーー!」と叫んだ。
痛みが来てるのに 分娩室まで歩く・・・イテテ・・・。
内診。先生が「帝王切開しよう。ここまで頑張ったのに無駄にしたくないでしょう?」と言った。
「(無駄?赤ちゃんが死ぬこと?いやいやいや)はい。お願いします」と答えた。
て、この時も 痛みは5分間隔ですから・・。
手術台には 全裸で「イテテテ・・・・」と 上った。全裸!
夜中11:30位から 手術が始まって
翌 4月5日0:22に産まれたのです。42週と0日 3612gでした。
二週間超過は体重も増える・・。
麻酔は局部麻酔。産声も聞こえましたよ♪
傷は、切腹みたいに横になるのが嫌で「たてにしてください」と言っていました。
今思えば、横にするべきだったかな・・。腰履きのジーパン履けないし・・・。水着もね・・・。
取り出した直後、大量の胎便をして 看護婦さんが「えらいね~。よくガマンしたねぇ」と言ってた。
羊水の中で胎便してたら 大変なことになるんですよね。
縫合のときは さすがに痛かったので全身麻酔にしてください、とお願いしました。
目が覚めて 部屋に居るのが分からなかったです。アタマぐるぐるでした。
おっぱい病院だったので、赤ちゃんは産後すぐに母親のところに来ます。
気付いたら、点滴のチューブと血圧モニターのコードのすきまに 娘が寝てました。
すったもんだの長女出産でした。
=次女の出産=
臍帯ケンラクでした。自然分娩より安全を取ったんだと思う!先生は!
手術のとき、「前の傷を取るからね」と、ケロイドの部分をピンセットでつまんで(!)
取ってました。痛いっちゅうの・・・。
「ウエストが1センチ 小さくなるね♪」って言ってたけど、皮膚じゃん!
同じように、局部麻酔で産声を聞いてあとは全身麻酔にしてもらいました。
お住まい | 大分県 |
帝王切開の回数 | 2回 |
出産地 | 大分市 |
出産年齢 | 20代 |
子の生年月 |
1999.4 2003.3 |
産院(総合・個人) | 個人 |
妊娠中は、順調でした。でも羊水が少な目ということ。お腹の張りは全くといっていいほどなかったこと。
子宮筋腫の上に胎盤が出来ているが、問題はないということ。
体調の変化などのトラブルはありませんでしたが、子宮の環境は問題なし!というほどではなかったような感じです。
でも、自然分娩はできるということでした。
動物の勘なのかしら、陣痛をきっと経験することはないような気がする。と漠然と思っていました。
自分が陣痛に耐えているビジョンというものが、まったく持てなかったのです。
身長は152cm。骨盤のX線はとりませんでした。お尻は安産体型といわれてます(笑)
けれども、予定日間近になっても、ベビーの頭は固定されることもなく高い位置にいたままでした。
そして内診では、妊娠前の子宮口と変わらない硬さだ、と説明されました。
鼻の頭くらいの固さから、くちびるほどの硬さになるものだけれど、私の場合は鼻の頭ほどに硬く、また閉じたままということでした。
予定日を過ぎ42週直前。胎盤の石灰化が多く見られ、でも子宮口は硬く誘発剤を使ってもかなりの時間がかかるだろうということ。
そしてもろくなった胎盤が先に剥がれてしまうかも知れない。帝切を薦められてしまいました。
手術前の検査のミス、手術中の麻酔による呼吸困難。術後の傷の痛みと後陣痛。
筋注の強い痛み。座ることも困難なほどでした。(術後2ヶ月は痛んでました。)
耳下腺の腫れによりベビーとの対面禁止。術後に待っていた仕打ちに私はとても辛く孤独を感じました。
入院中も放って置かれたまま。
もうイヤだと思いつつ、帝切ということで二人目の妊娠もその産院に通院していました。
産院を変えること、術中の経過もわかるだろうから、と思いながらも、麻酔の苦しさに次こそは死んでしまうかもしれない、という恐怖。
注射の痛み。放って置かれる孤独。
結局その不安を解消することが出来ずに、妊娠9ヶ月目にもなって、はじめて転院しました。
遅すぎたと思います。もっとはやくから転院するべきだと思っています。
だけど、勇気がなかったのです・・・・。
自分のお産なんだから、と今となっては思うけれどあの時は、誰にも理解してもらえずにいたのでなかなかすすめずにいました。
二人目は麻酔科の先生がいる個人産院です。
ですがここも、術前処置のミスなどがあり、不安をあおられました。
また術後の痛み止めはつかわせてもらえず、その日は一睡も出来ずに夜明けを迎えました。
痛くて苦しくて、長い夜が早く明けてほしかった。
そしてすぐにでも歩きたかったです。
幸い、手術中のトラブルはありませんでしたが、やはり、陣痛が来なかったこと、子宮口は軟らかくはなってきたものの硬いこと。
全く開いてもいなければ、ベビーの頭は骨盤内におさまらなかったこと。
予定日を3日過ぎての出産となりました。
きっと、体質なのかもしれません。一度でいいから、陣痛を経験したかった。
X線をとらなかったので真相はわかりませんが、骨盤とベビーの相性も悪かったと思っています。
二人目のときは術後3日目の辛いときに大地震にあい、被害はなかったものの心に傷を作ってしまいました。
とても苦しい入院生活だったです。
親子が元気でいること。感謝している。だけど、心の中にはまだもやもやはたくさんあります。
きっと一生・・・忘れることはあっても、消えないものだと思っています。
術後にも少しばかり生理のトラブルなど支障が出てきました。出産にこだわってしまう、気持ち。
育児は長いというのに・・・。でもムリしてフタをしないことに決めました。
帝王切開、この苦しさはダンナにもわかってもらえません。
きっと、同じ体験をした人だけが頷いてくれるのだろうなと感じています。
お住まい | 埼玉県 |
帝王切開の回数 | 1回 |
出産地 | 埼玉県 |
出産年齢 | 30代 |
子の生年月 | 2001.12 |
産院(総合・個人) | 個人 |
2001.3に私の転勤が決まり、記念に子作りに挑戦→成功!!
順調にお腹の子は成長しましたが、予定日頃になっても産まれる兆しがありません。
予定日を過ぎてからは2,3日に1回病院へ通いました。
骨盤の写真を新たに撮り、赤ちゃんが骨盤を通れるか確認した結果「降りてこれそうなんだけなー」と言われました。
そして「お腹の赤ちゃんは今はとっても元気だけどこれからも元気でいるかと言うと分からないので、元気がなくなる前に産んであげなくてはならない・・・」と説明を受け出産方法出産日を決めました。
出産日(手術)当日、最後の診察を受けました。
ここで産まれる兆しがあれば経膣分娩へ切り替える予定でしたがまったくと言っていいほど兆しが無いので、予定通り帝王切開をする事となりました。
私は、手術なんて怖くて怖くて、なんと言っても”腰椎麻酔”が嫌で嫌で緊張してがちがちでした。
背中に注射なんて痛いじゃん。
手術室に入ってからずーっと緊張してガタガタ震えて、緊張のあまり心電図も上手く取れなくてなかなか手術を始められませんでした。
先生が色々話しかけたりしてくれてようやく落ち着き手術開始!!
腰椎麻酔はやっぱり痛かったけど、今思うと普通に産む痛さと比べ物にならない位軽い痛みだと思いました。
痛い筋肉注射くらいかな。
麻酔をしてもらって、麻酔が効いているか確認するんだけど、自分で麻酔が効いているのか分からなくて、
先生がお腹と脇の辺りをつまみ「痛い?」「しびれた感じ?」などと繰り返し確認してくれました。
麻酔はまったく感覚がなくなるんじゃなくて、触られてる程度の感覚があるってはじめて知りました。
手術中お腹を触られてる感じはあったけど、まったく痛みは無かったです。
お腹を開けて「子宮は白くてキレイだったねー。」と言われました。
子宮が弱ってくるとだんだん濁った色になるそうです。
それからすぐ赤ちゃんの泣き声を聞きました。
嬉しかった。手術中目隠しをしていたので見れなかったけど嬉しかった。
その後、意識がだんだんもうろうとしてきて息苦しくなってきて「苦しいです・・・。」と
先生に伝えるとすぐに対応してくれて楽になりました。
手術は30分くらいで終わりました。
術後の経過は良く予定通り10日間で退院しました。
入院中経膣分娩の方の様子を見ながら、帝王切開でよかったと思いました。
赤ちゃんとは産後すぐには会えなかったけど、ドーナッツクッションはいらないし、腰も痛くないし。
どんな出産方法でも”無事に赤ちゃんが生まれる”事が大切なんだと思います。
お住まい | 千葉県 |
帝王切開の回数 |
1回 (2人目はVBAC) |
出産地 | 千葉県 |
出産年齢 | 20代 |
子の生年月 |
2000.3 2003.4 |
産院(総合・個人) | 個人 |
1999年8月当時、付き合って4ヶ月ほどだった今のだんなとの間に赤ちゃんを授かりました。
私はまだ18歳でどうしよう・・・。という迷いもありましたが、産むことに決めて、結婚しました。
それからは検診でも私の体重が増えすぎた以外は何の異常もなく
予定日の3月14日を楽しみにしていました。(実は20キロも体重が増えてしまったのでした…反省)
予定日が近くなるにつれ、病院の先生には「赤ちゃんがぜんぜん降りてこないから1日最低3時間は歩いてください・運動不足ですね」などと言われ毎日せっせと歩いていたのですが、予定日1週間くらい前から真剣に歩いてもほとんど効果はなかったようでした。
予定日を一週間過ぎた3月22日にとうとう入院。
はじめは促進剤を使って産みましょう。ということでした。
入院1日目→子宮口を開く為?の海綿みたいなものを子宮口に入れました。
なんだか子宮に注射されているようななんともいえない痛みでした。
その後は病室で休んでてよいとの事で1日目は終了。
入院2日目→促進剤を点滴しましたが効果はまったくなく子宮口は1cmから先へは進まず、 規則的な張りがあってもまったく痛くない…。
そんな状態で2日目は終了。
入院3日目→その日は促進剤などは使わないとの事で、病室でTVなど見て一日終了。
入院4日目→再び促進剤使用。が、2日目の時と変わらず効果なし。
ここまで何も効果が出ないと産まれてくるか不安になってきて、もしかしたらずっとお腹に入ってるんじゃないか??などと思うようになってきました。
入院5日目→3月25日・朝の検診で先生に「もう一度促進剤を使ってみますか?多分今日も産まれないと思うけど…あと2,3日待っても産まれそうにないし、赤ちゃんの心拍もあまりよくない…」などと先生の言うことは曖昧でイライラしていた私は「切って下さい」と一言。
帝切決定してしまいました。
すると先生からは信じられない言葉が…。
「それなら、今日の午後に手術をしましょう」
えぇ??その日は普通どおり朝食もしっかり食べていた私。
午後なら少しは消化されているかな?などと病室で考えていると、突然看護婦さんがやってきて一言
「午後の予定だった手術やっぱり午前中に(11時から)変わったから…。」時計を見ると10時ちょっと前。
手術前にお風呂に入れる予定だったのにそれすら却下され、看護婦さんの指示に促され気がつくとすっぽんぽんで手術台の上にいました。
予定通り11時に手術開始。
麻酔は腰椎麻酔でしたが、お腹の大きい妊婦さんが腰を丸めるのは至難のわざで、私は針がうまく刺さらず5,6回は麻酔の針を刺されました。
ズシーンッと腰が重くなった気がすると今度はつま先のほうからジーンと暖かくなってきて意識ははっきりしているのに下半身に痛みはなく、不思議な感じでした。
しかし、朝食を食べてしまったのがまずかったのか強烈な吐き気に襲われました。
手術中ずっと気持ち悪くて大変でした。
手術開始から20分位たって3510gの長女誕生。
術後はとてもつらかったですが子供の顔を見ると不思議と頑張れました。
あれから2年7ヶ月たち娘もだいぶ成長しました。そして私はただ今2人目妊娠中です。
1人目の時とは違う病院に(大学病院)に今通っています。
「一度はいきんでみたいな~…。」という私の希望で一応VBACの方向で先生とも話をしています。
お住まい | 埼玉県 |
帝王切開の回数 | 2回 |
出産地 | 埼玉県 |
出産年齢 | 30代 |
子の生年月 |
2000.12 2004.3 |
産院(総合・個人) | 個人 |
1996年に入籍。1999年に子供が欲しくなって病院へ。
不妊検査を受けると「高プロラクチン」との診断がでてそれによってうまく排卵が起きてないということでそのまま治療へ。
2000年3月、半年の治療の末に妊娠!予定日は11月23日。
妊娠中、尿糖が出ることが多く糖尿の検査を受けると「境界線型の糖尿」と診断を受けてしまった。
でも厳しい食事制限も出ず、気ままな妊婦生活を送っていました。
6ヶ月頃から恥骨が痛み出し先生に「痛いんですけど」と言っても「どこもおかしくないですよ」と言われるだけ。
尿糖が毎回出るので検診はず~~と2週間後。
8ヶ月の時に1回だけ3週間後という時があった。
月日は流れて・・・。臨月でレントゲンを撮った。
「骨盤と頭蓋骨だけなら通るかもしれないけど、産道や頭蓋骨には肉がついてるから微妙」と先生に言われた。
予定日の11月23日になっても何の兆候がない。
2日おきに病院へ行って分娩監視装置をつける。1週間を過ぎた11月30日にようやく誘発分娩の為に入院。
1日目は陣痛促進剤の点滴を受ける。
でも全然陣痛はおきなかった。2日目、点滴&バルーンを受ける。
それでも陣痛は全くおきない。3日目も点滴&バルーン。
午後にようやく陣痛がおきはじめる。でも子宮口は5cmくらいしか開かない。
4日目は点滴のみ。陣痛はあるけど子宮口は一向に開かない。
5日目は点滴をしながら先生による人工破水。
陣痛がすごく痛くなってお尻の穴が超痛くなった。
看護婦さんに言うと「赤ちゃんが下がってきた証拠よ、頑張って」と言われる。
でも子宮口は7cmどまり。
6日目。もう精神的にも体力的にも限界だったので、先生に「帝王切開にして下さい」とお願いしてみた。
でも「初産だからもう少し頑張って!」と言われてしまう。
でも結局その日の午後に赤ちゃんの心拍が上がってきてしまったので帝王切開に決定。
子宮口は9cmまで開いていた。
部分麻酔を受ける。
先生に「これは痛い?」とピンセットでつままれ最初は痛かったので「痛い」と答えてたけど、だんだんそんなに痛く無くなってきたので返事をしなかったら、しっかり麻酔が効いてないうちに先生が切り始めてしまった。
激痛ではないけど切っている痛みが・・・。
赤ちゃんを出すのも感じた。先生が「こりゃでっかいなぁ~」と言う声がした。
看護婦さんがきれいに洗ってきて私のそばに赤ちゃんを連れてきてくれた。
「4554gの女の子ですよ」と言われた。
臨月の検診から「大きめ」とは言われていたから大きいとは思っていたけど4554g!ビックリした。
私の場合は赤ちゃんが育ち過ぎてなかなか出てこれず、予定日超過になったのだと思います。
超巨大児になってしまったのは妊娠糖尿が影響しているのが大きいと思います。
あと恥骨が痛いからと必要以上には動かなかったせいかな?
2002年9月現在、2人目を妊娠しています。
帝王切開は受けた後が大変だったので次回は出来ればVBACにしたいと思っています。
~2人目~
1人目をH12年12月5日に予定日から12日遅れて緊急帝王切開にて出産した私。
2人目は「是非VBACで!」とずっと思っていました。
後期に入ってレントゲンを撮った結果は「下でも大丈夫でしょう」と言われ喜んでいた。
でも39週の検診の時に「赤ちゃんの位置が高い。これで陣痛がきたらお産に時間がかかり難産になって子宮がもたない可能性があります」と言われてしまいました。
命の危険をおかしてまでVBACにこだわってはいなかったので「じゃあ、帝切でお願いします」とお願いし、予定日の1日前の3月11日に予定帝王切開することに決定。
前日に入院。緊張のあまりほとんど眠ることが出来なかった。
オペ当日お昼過ぎから準備にはいった。2時過ぎに手術室へ。
前回麻酔があまり効いてなかったのがあったので「今回は絶対しっかり効くまで痛いって言うぞ」と思っていたのに、今回の先生は何度も「ここは痛い?」と聞くこともなくオペを始めてしまった・・・。
麻酔は私的には全く効いてはいなかった。まさに切腹!
超激痛で何度も「痛い!痛い!」と叫んだけど麻酔を追加することはなく看護婦さんに「頑張って」と言われるだけだった・・・。
死ぬかと思う位の激痛に耐えて次女を14時57分に出産しました。
出産が終わってもまだまだ処置が残っていて激痛に耐えていました。
「こんなに激痛でも失神ってしないもんなんだ」と頭の中で考えていました。
なんとか耐えてオペが終了。
でも血圧がなかなか安定しなかったのでオペ室を出ることが出来ず4時過ぎまでオペ室で寝かされていました・・・。
1人目の時は予定日から1週間後に誘発の為に入院し陣痛促進剤やバルーンを使って陣痛をおこしました。
結局5日目に人工破膜をして子宮口9センチまで開いたけど胎児の心拍が上がってしまったので入院6日目に緊急帝切での出産となりました。
2人目は予定帝切だったので1人目のように長く陣痛や入院生活に苦しむことがなかっただけ良かったです。
2回目ともなると回復も経験してるだけあって早かったし、2人目も帝切で良かったかなって思っています。
でも麻酔が効かないのだけは勘弁して欲しい・・・。
体質なのか先生の麻酔の量のミスなのかはわかりませんが。
もし3人目があったとすればもう次は完全に最初から帝切。
でも我が家は肉体的にも体力的にも経済的にも無理なので私の帝切体験は2回で終了です。
お住まい | 兵庫県宝塚市 |
帝王切開の回数 | 1回 |
出産地 | 兵庫県 |
出産年齢 | 20代 |
子の生年月 | 2000.7 |
産院(総合・個人) | 総合 |
結婚2年目。思いかけず妊娠判明。
その頃、私はパートをしていて後数年作らないつもりでした。
でも、しばらくパートを続けながら、妊娠生活を送っていました。
妊娠6ヶ月。パパの祖母が亡くなり、九州へ車で帰省。その後、7ヶ月でパートを退職。
そして、ここからが、想像しなかった毎日でした。
退職後の検診で、自宅安静を言い渡されました。
思えば、片道40分かけ歩いて通勤、そして7時間ほぼ立ちっぱなしのパートを週3日間。
それも、最後の方は、上司とのトラブルで泣くほどのストレスの日々・・・。そして、帰省、お葬式。
無理が続いていたのかも知れませんでした。自宅安静2週間後の検診で、即入院。
切迫早産で、ウテメリン服用の毎日が続きました。
約1ヶ月半の入院後、37週を迎え退院。
これで、もうすぐ、赤ちゃんと会えるはずでした。
ところが、入院中に、安静にしていたせいか、いっこうに陣痛が来ず、6月後半の暑い中毎日30分から2時間の散歩。
100段近い階段を3往復した日もありました。
しかし、陣痛は来ず、予定日超過となり、再び入院することになりました。
41週5目、促進剤を打つために、予定入院。
その頃、パパは長期出張のため居なくて、近くに住む姉夫婦に送ってもらい、同意書にサインしてもらいました。
ラミナリア、バルーン、促進剤の点滴・・半日かけて、陣痛を起こし、浣腸・毛ぞりまでしたところで、周りが急にばたばた騒がしくなってきました。
先生が何度も様子を見に来てくれ、看護婦さんも、常時二人居ます。
陣痛の痛みは呼吸法で逃れる程度で、子宮口も5センチ開いてきました。
でも、「胎児の心音が下がっているため、帝王切開をするかも知れません」と告げられました。
半分予想はしていたものの、やっぱりショックでした。
パパも、親もそばにいない、ひとりぼっちの決断でした。
それでも、普通分娩できるかも、という望みがあったのか、先生の手で破水させ、分娩台まで上りました。
結局、そのまま手術台行きとなりましたが、陣痛の痛みの中、一人での帝切への不安と、周りでの全身毛ぞりや、
指輪騒動(手術するから、はずした方がいいと言われたものの、点滴でむくんでしまい、何をしても取れず、後一歩で切られるところでした。
結局は、そのまま付けて、okでした)で、泣くどころか、かえって妙に落ち着いてしまいました。
裸にされ、布1枚かぶせられ手術室へ。
その間、これが落ちたらどうしよ~など、変なことを考える余裕までありました。背中に麻酔を打たれ、手術開始。
精神状態がおかしいのが自分で分かるほど、冷静でした。
子供が取り上げられて、顔を見た瞬間、涙があふれ、そのまま気を失っていました。
気が付くと、全てが終わり、個室へ移動するところでした。
すごく寒くて、夏なのに、電気毛布を借りました。その日は、子供に会うこともなく、面会の人もなく、本当にひとりぼっちでした。
出産を終えた興奮と、虚脱感と、子供やパパに会えない寂しさで眠れませんでした。
後で教えてもらった話ですが、子供は羊水をのんだかなにかで「軽い呼吸障害」があったそうです。
3日間、保育器に入っていました。
その間、私は歩くことも出来なかったので、車いすで硝子越しに1度だけしか子供の姿を見ることが出来ませんでした。
パパと会えたのは、4日後。
病院の先生が、職場の上司に「奥さんが大変な状態だから、返してあげてください」と言ってくれたそうです。
パパの職場と病院は同じ会社の系列なので、こういう事をしてもらえたようです。
でも、その時は大部屋に移されていたから、ゆっくりも話せず、あっと言うまでした。
ただ、陣痛室に入ってからずっと我慢していたものが切れたのか、パパが帰ってくることが分かってから泣きっぱなしでした。
ご飯も、お茶さえも飲めず、看護婦さんに怒られました。
私がこんなんで、赤ちゃんに悪いと分かっていても、どうしようもありませんでした。
退院しても、しばらくはそんな精神状態が続きました。
「帝切で赤ちゃんを可愛くない~」という話もありましたが、私のように一人であの数時間を過ごした者には、それが分からなくもありません。
こんな事を書くと、反発を受けるかも知れませんが、私自身の心が壊れていたからそうなったのかもしれません。
パパとの時間が欲しくて抱きしめて欲しくて、退院するまで、夜は泣いてばかりでした。
帝切経験者は、普通分娩者よりも心に負おう痛みの大きさが違うと思います。それが、言葉だったり態度であったり・・・。
私のように、心が弱い人には、パパの存在がとても大きいと思います。
このサイトを見たパパさん達には、奥さんの心を理解してあげてほしいと願います。
周りが何を言おうと、パパさんだけでも、おまえの味方だぞって、おまえの痛みはオレが分かるぞって言って欲しいのです。
お住まい | 茨城県 |
帝王切開の回数 | 1回 |
出産地 | 茨城県 |
出産年齢 | 20代 |
子の生年月 | 1997.8 |
産院(総合・個人) | 個人 |
私の場合、誰がどこから見ても「安産」「何人でもOK!」というイメージがありました。
体格がよく、身長も165㎝あっておしりが大きいので(笑)
しかし、私の家系は3300gを筆頭に、4600gの子供までいます。どうも赤ちゃんが大きく生まれる家系のようです。
私は一番小さく、一か月早く生まれてなんと3300gありましたι
「私は絶対小さく産んでやる!」という思いをいつも胸に抱いていました。
体重管理は2キロg増となかなか優秀に過ごせたのですが…
予定日になってもなんの兆候もなく、母も、「最初の子供は遅れるからしょうがないよ」といっていたのでそんなもんかな。と思いつつ過ごしていました。
予定日に検診に行く予定だったのですが無知な私は、「陣痛がくるまで検診行かなくてもいいよね…」と勝手に思い
それから1週間散歩をして陣痛がくるのをまっていました。(今考えるとぞっとしますι)
1週間たっても陣痛がこないので仕方なく母と病院に行ってみました。
すると、院長に怒鳴られました!
「最初の頃の検診なんてせっせとこなくてもいいんですよ!後期の検診がものすごーーーーーく大事なのに何やってたんですか?!
即入院して陣痛促進剤使います」
といわれ、まったく心の準備のできていなかった私は、廊下にいた母に、
「今から入院で陣痛促進剤で産むんだって…」と人事のように言っていました。
母は陣痛促進剤を使って私を産んでいるので陣痛促進剤使えばすぐ生まれちゃうからよかったわね。
と励ましてくれていたのですが私は促進剤の陣痛は普通の陣痛より痛い…と聞いていたのでなんだか複雑な気持ちでした。
その日のお昼から薬を1時間おき?くらいに1錠ずつのみました。
「いつくるんだろう…陣痛…」とドキドキしながら心の中でこっそり、
「あんまり痛い陣痛がきませんように」と情けないことを考えていました。
ところが…。その願いが通じてしまったのかぴくりとも痛くなりません。
先生も、「おかしいねー。じゃ、点滴を明日してみようか」ということで二日目促進剤の点滴も使うことになりました。
「点滴は効くかも!」と私の緊張も一気に高まったのですがその日も何一つ兆候が現れず、三日目。
点滴と錠剤を同時にやった気がするのですが結局だめでした。
四日目の朝4時。爆睡していた私は院長に起こされました。
「もっと強い陣痛促進剤があるんだけど使いますか?予定日が10日過ぎてしまったので赤ちゃんも心配です。帝王切開という手もあります。どうしますか?」と聞かれました。
陣痛室で4日間他の妊婦さんがどんどん産んでいってしまい、早く産みたい!と思っていたので迷わず帝王切開を選びました。
そして、その日の朝8時~手術開始という事になりました。
朝5時~シャワーをあび、「このお腹ともお別れだな…」と感傷にひたり、剃毛、浣腸、麻酔を効きやすくする注射をお尻に2本打たれました。
手術台に上がる前にコンタクトレンズを外したのがよかったのか周りが何も見えないのであまり怖いという感じがしませんでした。
しかし、手術着がノースリーブ?だったので「そういえば私わき毛そったっけ?!」とばかなことを考えていました。
腕をびっちり固定されて両脇に広げたような状態だったので手術前まで、「ああ、わき毛…」とそのことばかり考えていましたι(笑)
先生が、「全身麻酔だからなーんも怖いことないよ。目がさめたら全部終わってるからね。」というのですがもう一生目覚めなかったらどうしよう…とずっと考えていました。
そして、全身麻酔。
看護婦さんが、「一緒に数を数えましょうね…1…」といい始まったとき、思わず、「10数えるぞ!」などとまたしてもどうでもいいことを考えてしまったため7まで眠らず数えてしまいました。
思わず、「10までいける☆」と思ったとたん意識がなくなりました(笑)
それが悪かったのかふっと手術中目がさめました。
さめたというより、意識だけあるような状態で暗闇の中で思わず「あれ?もう生まれたあとかな?」とのんびり考えていました。
手も動かないし、足も動かない。
口ががばーーっと開いた状態のようであごが外れそう…!と思ったのを覚えています。
とそんな時間もつかの間、「さくしゅします(?)」「はい」というような声が聞こえました。
「さくしゅてなんだろう?」と考えているといきなり激痛が!!
まさか…いま切ってる最中?!
焼け付くような痛みとぐーーーーーーーっと押し広げられるような感覚に
「こりゃ大変だ!先生に麻酔効いてないって伝えなくちゃ!」と思ったのですが全身麻酔のためもちろん意識以外はぶっとんでいるので手も足も鉛のようで動かせません。
結局…真っ暗闇のなかで意識と痛みがはっきりしたまま産声も聞きました。
その時、「なんか男っぽい声だなー。でも女の子って言われてたし女なんだろーなー」とぐったりしながら思いました。
その後、おぎゃーおぎゃーという声がぼんやりしてきて、お…ぎゃ……ーー。お…~というように意識がなくなりました。
しかし、それだけでは終わらず縫っている時にもなぜかまた意識がもどり、その後大型ホッチキス?をばっちんばっちんやっているとき自分の体が波打っているのもわかり大変恐ろしい思いをしました。
結局…産んだあとの後陣痛はみんなが「痛み止め使いなよ!」というのを振り切って使わないまま耐えてしまいました。
意外と痛くなくて、後陣痛というくらいだから陣痛と同じだ!ひっひっふーの呼吸だ!と勝手に思い込み、産んだ後「ひっひっふー」をしていました。
しかし、それがよかったのか後陣痛は全然痛くなかったですι
生まれた子供は3600gの大きな男の子でした。
しかし…麻酔から覚めたとき、誰一人として子供の性別を教えてくれませんでした。(笑)
女だと私が思っているのでショックだろうとみんなが落ち着くまで話さない事にしようと決めたそうです。
「ねえ?性別どっちだった?」と聞いても、夫は「よくがんばったね」としかいわないので私は最悪の事態などを想像してしまい「何か子供がよくない状態だったのか?!」と思ってしまいました。
産んで3時間くらいで赤ちゃんを看護婦さんが連れてきてくれましたが、女の子だと思っていたのに男の子だったので何だか不思議な感じでした。
でもうちのお父さんにそっくりだったので間違いなく私の子なんだな~と思いました。
手術後一番辛かったのはのどがものすごく痛かったことと、たんがからんでいたのかせきをしたいのにお腹に力を入れると恐ろしいほど痛いことでした。
また、笑っても激痛が走りましたι
4日目~起きておもゆを食べられるようになったのですが4日目に起き上がると頭が鳥の巣になっていて(すごい鳥の巣でした…今までで初めて!)その上歩けなくなっていたことがびっくりでした。
今は早期離床でそんなことはないのかな?
全身麻酔で産むところはなかなかないようですが「意識が戻ったらもう産まれてる」と思っている人には途中で麻酔から覚めた思い出をお話しています。
お産はどんな方法でも大変です…。
お住まい | 大阪府 |
帝王切開の回数 | 2回 |
出産地 | 奈良県・大阪 |
出産年齢 | 30代 |
子の生年月 |
1999.11 2001.12 |
産院(総合・個人) | 総合・個人 |
~1人目~
私は1999年11月に第一子(女の子)を帝王切開で出産しました。
妊娠32wで羊水過多症と診断、切迫早産のため、36wまで出産した病院で管理入院していました。
その後、37wになったのでいったん退院しました。
ところが予定日になっても産まれる兆候がないので分娩監視装置をつけて診てもらうと心音が下がっていて切迫仮死の状態になっていることがわかり出生前日に緊急帝王切開が決定しました。
それが偶然にも私の24歳の誕生日でした。(年がバレてしまいましたが。干支も誕生日も血液型も同じになりました。)
母子手帳には「胎盤機能不全→帝王切開」とあります。
後で聞いたところによると、過多症にまでなっていた羊水はほとんど無くなっていて、胎便をしていたんで羊水混濁になっていたそうです。
2814gと体重はあって、アプガースコアも8点あったのですが、泣き声は弱く、私はその時に決めていた名前を何回も呼んでました。(もちろん、その名前で命名しましたが)
2日後に哺乳力微弱で院内のNICUに入院になりました。
そしてそこでの検査の結果、第15番染色体異常(プラダ・ウイリー症候群=PWS)と告知されました。
それから1ヶ月後、NICUを退院、小児科を経て年内にようやく退院して一緒に暮らすことになりました。
それからも定期的通院や、鼻チューブでの間接哺乳の日々が続きました。
(PWSは、筋力と気管支系が弱いという症状のため、摂食、睡眠障害がありますが、赤ちゃんのうちは単に成長が遅いだけで発見されないこともあるそうです)が、そんな日々は長くは続かず、
忘れもしない2000年8月12日、実家に帰省中の車中で突然 窒息をして天国に旅立っていったのです。
間接的に前記のPWSの気管支系障害があったのだと思いますが、未だもって原因ははっきりしてません。
ただ、はっきりと言えることは、娘が生まれる時に自然分娩にこだわってたら、間違いなく9ヶ月と2日の年月を共に過ごすことは永久にできなかったであろうということです。
そういう意味で私は帝王切開は立派なお産の方法であると思います。
傷は出来たけど、立派に子供を産んだという証だと思ってるんで悪い気はしませんし、今回の帝王切開にも抵抗はありません
その半年後、今の二人目を妊娠しました。
前記のPWSは非遺伝性の病気と聞いているのでたぶん今回はその病気はないと思ってます。
幸いにも今まで異常なし、順調に来ています。
が、前回そういった経緯で帝王切開をしているし、この妊娠判明直に内痔核の手術をしたばかりなので今回も帝王切開を予定しています。
~2人目~
今回は、第一子の経験談の最後にも書かせていただきましたが、初めから帝王切開にする決心をした上での予定帝王切開でした。
まあ、それだけではなく、大切な第一子を天国に旅立たせてしまって、その上、さらにリスクを負って、
最悪の結果を負うことになっては全ての点において、一生後悔をすることになるのではと危惧した末でという理由もあります。
今回は里帰り出産をせず、地元の個人病院(第一子の時には開設していませんでした)での出産でした。
今は、地元の情報番組で大々的に取り上げられて有名になっている病院です。
今回の帝切は硬膜外麻酔と腰椎麻酔、両方をするという話でした。
(思い出しながら書いているのでちょっとおかしなところもありますが、ご了承ください。)
手術の時にしたのは後者だったと記憶しています。
予定だったので、34Wの検診の時に手術日と照らし合わせた出産日を決定しました。
今回は38W5dの出産になりました。
前日に入院し、背中と下腹部の剃毛、NST、皮内テストの注射をし、21時~絶飲食になりました。(これは産後1日目の夕方まで続きました)
2度目の出産で、経過も順調だったのですが、その日はさすがに緊張して眠った気になりませんでした。
そしていよいよ迎えた手術当日=出産日、ここまで来るとかえって度胸が据わって落ち着いた心地になりました。
導尿・浣腸、点滴もすみ、腰椎麻酔も思っていたほど痛くもなく、順調に効いておりました。
そして14時39分、大きな泣き声と共に長男が誕生しました!
その泣き声を聞いて、それまで落ち着いていましたが、うれし涙が止まりませんでした。
泣いたということに…。
夕方になって自分の病室に移り、少しずつ麻酔が切れて、下半身がロボットの足のような感触になってきました。
痛み止めの硬膜外麻酔をしているにもかかわらず、次の日から後陣痛が一気に押し寄せてきました。
一時だけ母子同室になりましたが、結局痛みのせいですっかり疲れてしまい、何もできなくってもどかしく思いました。
そんなところで痛み止めをしてもらい、少しはましになりました。(これを我慢していたら大変だったと思います。一度目の教訓でした)
産後二日目に硬膜外麻酔と点滴を抜き、内服薬服用開始、三日目に導尿を抜いて産後、初めてのシャワーを浴びました。(ただし防水テープ使用)、
五・六日目に抜こう・抜糸をしましたが、痛みはあまり感じませんでした。
結局、今回は11日入院で、54万かかりました。(始めの5日間、病院の事情で特別室を使わざるを得なかったため、高くついてしまいました)が、今回の病院はまるでペンションにいるかのような部屋、毎日フランス料理風の食事(これは出産前と常食可になってから)と2度のおやつ、そして細やかな手術後の処置、着替えのレンタルなど、前回とは天と地ほどの質の差がありました。
有名になってもちっとも恥ずかしくないと思える病院が偶然近所にあって本当に良かったと思いました。
母乳も、入院当初は不安定な出方でしたが、一ヵ月後検診では完全母乳にしてはと言われるほど良く出ており、一歳を超えても良く出ていました。
そのお陰で生理再開が遅くなり(今年になってからでした)、三度目の妊娠をしたかと疑うほどでした。
今では息子は娘の命をもらったかのように、非常に活発で積極的な物怖じしない性格に育っています。
そんな息子の姿を見ると、この選択をして心底よかったと思います。
帝切は決して楽をしたのではないし、後ろめたいものではないと声を大にして言う自信があります。
予定帝切だと、誕生日がはっきり決まって準備もしやすいと、かえってプラスに感じているくらいです。
次回出産の時も100%予定帝切になると言われましたが、それが良いと常日頃感じているくらいです。
息子にも新たな家族の誕生の心構えを持ってもらいやすくなるし、
…まだ予定はないですが。また第三回があるとするならお世話になります。
お住まい | 東京都 |
帝王切開の回数 | 2回 |
出産地 | 埼玉県 |
出産年齢 | 20代 |
子の生年月 | 1997.9 |
産院(総合・個人) | 総合 |
妊娠初期に「あなたは、人よりも子宮の入り口が真下についてるから流産しやすい」って言われました。
多分、入り口って言われた気がします・・
安静のスタンプばかり押されました。仕事してたもので。
そのうち子宮の入り口とかも人並みになったみたい。何も言われなくなりました!
妊娠中は尿蛋白と多少お腹がはるぐらいで何もおきませんでした。
仕事も9ヶ月でやめて準備OKなのに予定日過ぎてもオトサタなし・・・
10日過ぎてやっと「おしるし」が!久々の血でドキドキしましたァー
その夜中に入院して、私が一番乗りだったのに、あとから来た人がドンドン先に分娩室に入ってしまって不安にまりました。
陣痛きてるときに分娩台に乗るのは大変だった!
リラックスできる様にとお風呂にも入って(不思議と陣痛も和らいだよ
トイレにもいっぱい行ったのに(溜めると子宮口の開きが悪いみたい)3日寝ないでご飯もたべないで頑張ったのに
4センチ開いただけ・・・
陣痛の波もきちんときてたのに~
9月1日、「このまま促進剤を使ってもりきめないから切る」と先生の判断で帝切になりましたー
麻酔は全く痛くなかったよ!!痛いと聞いてたのに・・・
麻酔した途端、陣痛はなくなった(当たり前よね~)
下半身麻酔だから先生たちの声もよく聞こえました。
始まってから30分もたたないで産まれてビックリ!!
あの3日間は・・・
「女の子よ」の声を聞いて安心したのか寝てしまいました。
だから顔をよく覚えてないの~ 悲しいわっ!
でも、胎盤を吸うときあまりの気持ち悪さで目が覚めました。
よくある事みたいですよ。それからまた寝てしまったけど
看護婦さんが赤ちゃんを連れて来てくれて初めての母乳。
疲れすぎて傷口の痛みもわかりませんでした。
でも、夜中に注射を持って立ってた看護婦さんを見た時はビックリしました。どうやらウナサレテタみたいです
尿管をとれば自由の身。でも、起きあがるのに時間がかかったなァ
トイレに行くのも一苦労~ 母子同室だったのでこれまた大変
シャワーを浴びるたび傷口を見て鳥肌が!だってお腹にホチキスの針が刺さってるぅ
抜糸をしたらあまり痛くなくなったような感じがしました。
抜糸は柔らかい部分がチクッとした程度かな。
3時間おきの母乳も色んな人とお話しができて楽しかったです
今は傷口もキレイです。ただ、切り口がへっこんでます。
でも、すごく幸せです!子供が元気で!!
お住まい | 鹿児島県 |
帝王切開の回数 | 2回 |
出産地 | 鹿児島県 |
出産年齢 | 30代 |
子の生年月 |
1992.2 1993.9 |
産院(総合・個人) | 個人 |
私は、初めての妊娠の確認と同時に卵巣脳種を見つけられてしまい、初期流産の可能性が低くなり、
なおかつ、子宮が大きくなりすぎていない16週目に片方の卵巣を摘出する手術をしました。
先生が、とても楽観的に説明されたことと同じ経験をした親戚が近くにいたことで、あまり不安を感じることもなく手術を受け入れていました。
でも、よく考えてみると病気だったわけで…(笑)
術後は順調で、マタニティーヨガや、スイミングなど普通に妊婦さんして過ごせました(^^)
予定日は1月21日でしたが、予定日が過ぎてもいっこうにその気配がなく(笑)ついに先生から「予定日が2週間過ぎたら胎盤の機能も落ちてくるので入院しましょう」と言われ、2月3日に入院…
1日目入院してすぐ促進剤の錠剤を1時間おきに飲みながら階段を上り下り、6時間後から夜の9時まで促進剤の点滴…
翌日も朝6時から夜9時まで点滴…その間下からもバルーンやら海綿体やら入れられ(それがとっても痛かった(--;))
次の日も朝6時から夜9時まで点滴…しかし、ただ痛いだけで全然モニターにも『張り』が見られない。
点滴をはずすと痛みもなくなるのです。
入院3日目の夜、先生から『もうこれ以上、促進剤の点滴をしても明日も同じのような気がする。
産道のの準備もできてないし、子宮口も初日に3cm開いたきりだし…。私としては帝王切開の方が安全だと思うので、そうしたい』
と言われ、少しショックだったけどもう私も待ちくたびれていたので決心しました。
手術の時は、切開したとたん麻酔担当の先生が「あら、羊水がほとんどないわ」と…。
あとで聞くとやはり妊娠中毒症気味だったのだろうと…。
先生は「でも血圧が普通だったし…??」と、言われるのですが、私はふだん上が100を切るほどの低血圧で、それが妊娠中は120~130あったのだから、高かったんじゃないかと…。
それを証拠に第2子の時はやはり100を切る普段通りの血圧だったのでした。
第2子の時は、前回陣痛が来なかったことや産道も堅く、苦労したことで半分あきらめ気味で、どうせ、予定日が来たら都合の良い日を選んで帝王切開で出産だー!と余裕でかまえていたら予定日前に微弱ながら陣痛があり(初めて?でよくわかんなかったA^^;)
しかし、母体の準備ができてなくて時間がかかるということで、やはり帝王切開で出産。
出血が多く(羊水込み2600cc)あとが貧血や微熱で大変でしたが、今は私も子供達も健康でこのような楽しい人生を過ごしているので(笑)本当に幸せだなあと思っています。
祖母が赤ちゃんを見に来たとき「昔だったら生まれて来なかった子だね…。本当に良かったねぇ」とつぶやき、
帝王切開は赤ちゃんにとってはもっとも安全な出産方法なんだと改めて認識したのでした。